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治療が嫌いな馬には「正の強化」

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ヒトの医者に比べて、馬の獣医は大変な仕事だとも言えます。何故なら、ストレスを感じた「患者」(馬)から、噛みつく、頭部を振り回す、蹴りが飛んでくる、などの攻撃を受けるため、深刻な怪我の危険に曝されることになるからです。歴史的には、獣医師、その助手、および、馬の取り扱いの担当者は、診療を安全に進めるため、諸々の保定方法(ロープ、チェーンリード、鼻捻棒など)を使って馬を制御することに頼ってきました。

しかし、ケンタッキー大学のキャミ―・ヘレスキー博士は、保定よりも遥かに良いアプローチがあると述べています。そのアプローチは、正の強化(Positive Reinforcement)と呼ばれており、ご褒美としてオヤツを与えたり、キ甲部を撫でるなどの肯定的なトレーニング手技を用いることで、医療行為に対する馬の恐怖心を和らげることが出来ます。その結果、馬の取り扱い担当者と馬自身の両方にとって、より安全で、効率的で、かつ、完全な医療行為を実施することが可能になるのです。

実際にやってみると、もっと早くこれをやっておけば良かった、と思うに違いないとヘレスキー博士は述べています。正しいトレーニングを施せば、獣医は正の強化を通じて、驚くほどの短時間で、馬を冷静かつ協力的にさせられるとも言われています。

参考資料:
Positive Reinforcement in Practice (Christa Leste-Lasserre. The Horse: Dec 1st, 2023)

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馬に良いことは、獣医にも良いことだ

獣医療を行なうために、馬に大人しくしてもらうことは、相手が、歯と蹄で武装した500kgの動物であることを考えると、とても大変な作業になります。しかし、エジンバラ大学のゲンマ・ペアソン博士によると、馬という動物は高い認知能力を持っているため、それを利用することで、獣医はより賢く、より安全で、動物福祉の面でも望ましいやり方で、医療行為を進めることが可能となると言われています。

ペアソン博士は、「よくあるミスは、馬を抑えつけて、やりたくないことをさせようとするところだ」と述べており、「私たちは、馬がやって欲しいことをするようにトレーニングすべきだ」と提唱しています。例えば、馬に頭部を静かに維持させたり、指定の位置に肢を置くことを教えるために正の強化を使うと、獣医療に対する馬の認識を変えることが可能であり、丁度それは、ヒトの子供に対して、歯科検診の後にご褒美を与えるのと似ていると言われています。

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一方で、正の強化を用いることは、馬が危険に対して取る「自然な行動」を防ぐのにも役立ちます。馬が医療行為を嫌がって、それを回避しようとすることは、至極ナチュラルな反応であると認識する必要があります。だからこそ、正の強化を使うことで、実際にその馬が、その反応を通してストレスを感じるのを防ぐことが出来ると述べられています。

もちろん、獣医師が、正の強化ではなく、保定措置を選択すべき状況も存在しますが、その頻度は高くありません。ヘレスキー博士によれば、物理的な保定方法を完全に無くすことが目的ではないものの、チェーンや鼻捻棒の使用が最初に考慮する手段になってはいけない、と提唱しています。



正の連想:オヤツと愛撫

一般的に、「正の強化」とは、馬が喜ぶものを与えることによって、特定の行動に対する報酬にすることを示す科学的な用語です。通常、これには、食べ物または愛撫が含まれ、例えば、注射を我慢してくれた馬に対して、オヤツを与えたり、頚部を愛撫したりすることが含まれます。これらの手法により、馬の心拍数を最大で10%も減少させることが実証されています。

一方、「負の強化」とは、馬が嫌がるものを取り除くことによって、特定の行動に対する報酬にすることを示します。このため、負の強化は、罰によって強制的に特定の行動を取らせることとも異なります。例えば、獣医や取り扱い担当者が、馬を前進させるために曳き縄を引っ張り、馬が前に進んでくれたら、すぐに引っ張るのを止めることが、負の強化に相当します。

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正の強化と負の強化は、両方とも馬の福祉に優しいトレーニング手法ですが、このうち、正の強化の方がより強力な効果を持つと言われています。近年の研究結果では、正の強化でのトレーニングを受けた馬のほうが、より長く効果が持続することが示唆されています(正の強化のほうが、ドーパミンの変動が緩やかであるため)。このため、若齢馬に対して、正の強化を使って医療手続きの馴致をしたり、成馬に対しては、獣医師との関係性を改善するために正の強化を用いることで、長期間にわたって獣医療行為の実施を容易にすることが可能となります。



適切な行動への報酬

正の強化を効果的に使用するには、適切な行動を獣医が正しく認識し、その行動に素早く報酬を与えることが大切です。タイミングさえ間違えなければ、正の強化によって、過去の獣医が馬に及ぼしてしまった間違ったトレーニングさえも元に戻すことができます。そのような馬の多くは、獣医療から逃れる唯一の方法は、ヒトに対して攻撃的になることだと学んでしまっているため、獣医を馬房内に入れてくれないことさえあります。

ペアソン博士は、正の強化のための目標は、小さなステップに分解するべきと述べています。例えば、静脈注射の場合、獣医が馬に近づき、肩に手を置き、頚部、静脈と順に触っていき、そして、獣医が注射器を頚部に当てるまで、細かいステップに分けます。そして、これらの各ステップに対して、馬が適切な行動(各ステップを馬が許容すること)を取った直後に正の強化を行ないます。

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ただ、難しいケースでは、負の強化から始めることもあります(例えば攻撃的に反応する馬など)。そのような負の強化の一例としては、単に馬から距離を取ることが挙げられます。少しでも馬がリラックスしたときには、一歩後ろに下がって、馬体から手を放して、「いいね」と言いながらオヤツを与えます。こうすることで、馬の気持ちとして、獣医が予測可能で制御可能だと思うようになり、遥かに穏やかに感じるようになります。その結果、最終的には、馬に近づいて、必要な医療行為を完遂することが出来ると言われています。



オヤツと愛撫での反対条件づけ

正の強化と同様に、反対条件付け(Counter-conditioning)は、獣医療に馬を順応させるのに役立つ有益なツールであると言われています。ただし、この場合には、例えばエコー検査のように、馬が望まない行為を受け入れている最中にご褒美を受け取るという形になります。

一般的に、正の強化では、特定の行為を馬が受け入れた際に、それに対して報酬を与えるのに対して、反対条件付けでは、馬の認識や感情の状態に変化を与える効果があると言われています。そのような変化は、馬の行動そのものとは関連していませんが、馬の認識や感情が変わることで、馬の行動も変わっていくことになります。

反対条件付けが有用な例として、直腸検査とエコー検査による繁殖検診があります。牝馬がこの検査を初めて受けるときには、鎮静剤の静注を用いることも多いのですが、注射針による痛みと、繁殖検診を結びつけない方が良いという考え方もあります。一つの対案としては、繁殖検診を行なっている最中に、単にバケツで給餌をしてみることが挙げられます。その結果、驚くほど多くの牝馬において、ゆっくりかつ優しく検査が実施できます。そして、それを繰り返すことで、牝馬たちは、バケツの餌と繁殖検診を結びつけ始めて、穏やかでリラックスした状態で、検査を受けてくれるようになります。

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また、反対条件付けは、レントゲン等の画像診断や、診断麻酔とも連携させることが出来ます。例えば、馬の蹄のレントゲン撮影するとなった場合、レントゲンのプレートを馬の蹄に近づけるときに、少量の飼料を与えはじめて、その後、撮影を終えて、プレートを遠ざけるときに給餌を止める、という手順を繰り返します。そうすると、殆どの馬たちは、レントゲン撮影と給餌を条件付けして、レントゲン機器が近づいても、落ち着いて、それを許容するようになるのです。

ペアソン博士によると、エコー検査をする際には、反対条件付けとして、糖蜜を与えることもあります。これは、馬にとって、飴玉のようなものであり、検査中に糖蜜をずっと舐めていることで、甘い味覚と検査を連携させて、良好に受け入れるようになると言われています。一方、ヘレスキー博士は、馬を治療するときにも、同じように、給餌をして楽しませるようにしているそうです。例えば、蹄底膿瘍(挫跖)の治療をしている最中にも、乾草を食べさせておくという反対条件付けを行なうことで、疼痛を伴う処置を許容してくれるようになる、と述べています。

しかし、正の強化を正しくトレーニングするためには、単にオヤツを用意しておくだけではなく、タイミングが非常に重要です。タイミングは、正の強化と負の強化の両方で重要であり、オヤツの不適切な使用は、望ましくない馬の行動に報酬を与えてしまい、事態を悪化させる可能性があるからです。

実際のところ、むやみにオヤツを与えると、ずる賢い馬の場合には、オヤツを求めて突進してくることもあります。オヤツを与える方法は、宇宙科学ほど難しくはありませんが、馬の適切な行動を見逃さないこと、および、オヤツを与えるタイミングを逃さないことが重要となってきます。

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また、正の強化を実施するタイミングに関しては、適切な行動のなかのステップが大きすぎると、馬の警戒心を解くことができず、正の強化がうまく作用されないこともあります。例えば、静脈注射の場合、最終的には、馬は静かに駐立し、頚部を触らせて、注射針の穿刺を受け入れ、投薬または採血が完了するまでジッとしている必要があります。ただ、これら全てのステップを、最初から最後まで通して馬が許容したときに、始めて馬にオヤツを与えようとすると、タイミングが遅すぎることがあります。このため、一つ一つのステップに対して、馬が適切な行動を取るたびに報酬を与えるほうが効率的で、正の強化のトレーニングも早く進みます。

実は、正の強化を用いるときに最も難しい部分は、望ましくない馬の行動に対して反応することなく、獣医が冷静さを保ち、ただひたすらに、馬の適切な行動(もしくは、適切な行動が増えてくる過程)を待つことであると言えます。正の強化を通して、馬が適切な行動を学習している最中にも、望ましくない行動を取ってしまうことも起こり得る、ということを忘れないようにしましょう、とペアソン博士は述べています。



正しいオヤツの選択

正の強化で与えるオヤツに関しては、林檎や人参を用いるのは簡単ですが、そのような高価値な報酬は、逆効果になることがあります。そのようなオヤツに対しては、馬の脳内のドーパミンが急激に上昇するため、一部の馬は、興奮レベルが高くなり過ぎて、その後、非常に簡単にイライラしてしまうことになります。

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普段から濃縮飼料を食べている馬は、いつも通りの飼料で、正の強化の訓練が可能ですが、牧草地で飼育されている馬は、ペレットや粉乾草、もしくは、刻んだ牧草を使用した方が良いことがあります。

また、一部の獣医師は、オヤツよりも愛撫を好むことがあります。肩のあたりをブラシ掛けするように愛撫すれば、オヤツと同じくらいに効果的ですし、オヤツを与えるのとは異なり、それを求めて馬が突進してくることは無い、という利点もあります。



数分間で全てを変えられる

正の強化に関しては、忍耐強く時間を掛けることが強調されがちですが、そう考え始めると、永遠に時間が掛かってしまうような気がしてしまいます。しかし、実際には、やり方を間違えなければ、馬が正の強化について学習するのが、どんなに速いかに驚かされる筈だと言われています。

ペアソン博士によれば、注射を怖がる馬の九割は、30秒から1分間で再訓練できると述べられています。もちろん、馬によっては、5分間から10分間を要することもありますが、それは、他の手法では、20分間から30分間も掛かってしまう馬が多いからだと言えます。つまり、殆どの馬に対しては、正の強化のほうが、他の手法よりも速くなりますし、何度も繰り返し用いることで、それが更に速くなります。

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この原則は、「老犬が新しい芸を覚える」という状況でも同様であり、例えば、過去の獣医療の経験から、治療が大嫌いな馬においても、正の強化は有用であると言われています。ヘレスキー博士によれば、そのような治療嫌いの馬も、完全に再訓練することは可能ですが、過去の悪い経験の度合いによっては、再訓練に多くの時間を要するかもしれない、とは述べられています。



正の強化に関して重要なこと

馬は、知らないものを怖がったり、ストレスを感じやすい動物ですし、獣医療で否定的な経験をしたりすると、治療が大嫌いになり、獣医や助手のリスクに繋がってしまいます。このため、正の強化を導入して、馬の態度や行動、獣医療関係者との関係性が変われば、馬の健康や福祉にとっても良い結果をもたらすのではないでしょうか。

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